81年前の7月7日の蹉跌

 7月7日は七夕の日です。願いを短冊に書いて笹に結ぶと願いが叶う日です。私が住むマンションの1階玄関横に七夕の笹が飾ってあります。81年前、庶民が戦争の勃発を望んではいないと思いますが、1937(昭和12)年のそんな庶民の七夕の日に、中国北京郊外の盧溝橋おいて、日本陸軍と蒋介石の中国軍と小さな衝突事件が起こりました。この小さな小競り合いが、宣戦布告がないまま、日本が1945(昭和20)年8月15日に敗戦するまで8年間、約100万人以上の陸軍を投入する「日中戦争」(中国から見たら「中日戦争」)として泥沼の戦争の始まりでした。
 しかし侵略戦争の先兵と思われた当時の陸軍は、当初、衝突事件を上海や南京など中国全土に広げることに消極的だったといわれています。それは、北方のソ連軍との戦争を想定していたからです。現に2年後の1939年、ノモンハン事件で陸軍は壊滅的な敗戦を喫し、以降、南進政策に傾斜していったといわれます。当時の陸軍は、中国に対し緻密な戦略や戦争計画を持っていなかったと言われます。中国軍は弱すぎて、中国軍から日本軍に仕掛けてくることはまずないと信じられていました。日本軍が、一発、中国軍に本気でかませば、蒋介石は直ぐに降伏すると思い込んでいました。これが「中国一撃論」で、中国を完全になめていたようです。しかし、日中戦争の中国本土全体への拡大と完全消耗戦に入り、軍事的に蒋介石を降伏させることが、日本の軍事遂行能力からみて不可能となりました。
 局面打開策として、南進政策が進められ、米英との太平洋戦争の開始だったといえます。もともと国力からみて米英との戦争は勝ち目がない戦争でした。しかも、敗戦時日本は中国大陸に支那派遣軍約105万人、満州国関東軍約70万人、合計約175万人の陸軍将兵が釘づけにされていました。太平洋戦線には、それを下回る約81万人の戦力配置でした。これでは、軍事に素人の私でも、最初から負けることがわかっていた戦争ではなかったのかと思います。いちかばちかの無謀な勝ち目のない戦争だったのです。「神風」は吹きようがなかったのです。(文責:代表理事 五百木孝行)

7月 7, 2018